“「思い出」って、みんなちがうものです。
小林くんは、小林くんの生きてきた
”
家や場所や経験や人たちとの関係のなかで、
小林くんの思い出をつくります。
それはもう、吉田くんでも同じことです。
山田くんが夏休みに家族と行った海の思い出は、
たとえ似ていたとしても、伊藤くんの思い出とはちがう。
北海道で育った人と、沖縄で育った人とは、
やっぱり思い出がちがうし、
富山で暮らしている人と新潟の人も、思い出がちがう。
家がお金持ちだったかどうかでも、思い出がちがう。
兄弟の仲がよかったかどうかでも、思い出がちがう。
都会に住んでいたかどうかでも、思い出がちがう。
“ 大学時代に仲のよかった友だちが6人おり、
そのうち故郷に帰ったのが2人いて、そのどちらかがたまに
出張などで上京すると、しぜんと在京の4人が集まって歓迎し、
夜っぴて痛飲することになります。
あるとき、かれらと飲んでいて気がつきました。
煙草を吸っているのは、僕だけだったのです。
「なんだなんだおまえらいつのまにやめたんだ」
「いいとししていつまでそんなものすってる・・ふふふ」
なにそのさ「ふふふ」は。上から目線ぽい含み笑い。
「やめるならやめるっていってくれよみずくさいぞおまえら」
「はははははっ」「いいぞぉけむりのないせかいって」「はははっ」
いっせいにやめたわけでもあるまいに、いやみな笑いを笑う。”
喫煙室のこと
“昔、ゲージュツ家のクマちゃんこと篠原勝之さんが、
たいへん具体的にビンボーだったころに、
そのビンボーさを機知に富んだ笑いに変えていました。「俺は経済的菜食主義者だからよ」だとか、
「肉は二本足のものまでなんだ」とか、
「ほんとはまずいもの食うのは、
医者に止められてるんだ」であるとか、
忘れられない名作がいっぱいあります。「清貧の思想」みたいなことの、
”
正反対の場所にいて、とてもかっこよかったです。
クマちゃんが、信じるに足ると認めた人からでないと、
酒やめしをおごることは許されてませんでした。
「貧」を愉快に語ることはあっても、
「清」に結びつけたりはしませんでした。
“小3の頃「あけましておめでとう」って来た年賀状に「どういたしまして」って返事出してウザがられてた”
“二度目にほめられたのは、7、8年後のことでした。
なにかと時間がかかるタイプではあります。
そのときのコピーは、西武百貨店の新聞広告のキャッチフレーズで、
自転車を買った。
でした。夏のヴァカンスがテーマで、今年は自転車がブームだから、
自転車中心で、というテーマにあっけないほど忠実な、
わるく言えば何の加工もしていないコピー。それを救ってくれた
のは、あきらかに、永倉智彦さんというデザイナーの才能でした。
当時の永倉さんは、どんなコピーでもぜったいMB101で
デザインし、どんなコピーでもじぶんの世界に引きこんでしまう、
いま思えばふしぎなデザイナーでした。いまもふしぎなことに
変わりはありませんが、そのころは抜き身の刀のようでした。
じつを言えば、このときは、書いても書いてもオーケーが出ず、
さいごはもうなにを書けばいいかわからない事態にまで
追いつめられていた。こっそり安藤さんに相談し、コピーを
見てもらってもいたのです。そのなかからぎりぎり絞りだした
コピーがこれでした。これで通りました、安藤さん!
と報告すると、「ともかくも、いいコピーに決まってよかった」。
安藤さんはそう言ったのです。はんぶんは、ねぎらいの言葉
だったように思います。”
28年前のこと
“ある日、あるひとが僕に近づいてきて、こう言ったのです。
「あのコピー、きみが書いたの? おもしろいねぇ」
とつぜんの、一瞬の、居合い抜きみたいな、ほめ言葉。
僕はとまどって、なんにも言えないままそのひとの後ろ姿を
目で追いかけました。ただそのひとことを言うためだけに
やってきて、言い終わるや去っていった。そんな風情に見えました。
そのひとが安藤隆さんでした。入社して何ヶ月かたっての
できごとです。そのときのコピーは、12年ぶりに、子年ですね。
というもので、毎年、お正月に発売されるサントリーオールドの、
”
いわゆる干支ボトルという、年賀用の商品のコピーでした。
12年でひとまわりする干支ですから、12年ぶりなのはあたりまえの
ことなのですが、12年に1度しかない稀少性を言おう、というのが、
このコピーの意図でした。ただ、子年に限らず、すべての干支は
12年に1度なわけで、それをわざわざ12年ぶりなどと
もったいつけて言うことは、2度と使えない禁じ手のようにも
感じていました。安藤さんの「おもしろいねぇ」は、
たぶん、そのあたりのナンセンスさかげんを指してのことだった
のではないかと想像します。
28年前のこと
“1─2で向かえた延長後半12分、俺はコロンビアはメデジンのバル(飲み屋)にて日本戦を
コロンビアの人々とTV観戦してました、コーナを蹴った→澤選手がゴールを決めた瞬間…
アナウンサーが「ゴォォォオオオオオルルル!エンパターダ・ハポン!(日本同点!)
マルカード・サワ!エンパターダ・ハポン(澤の得点!日本同点!!ゴォォオオオオル(2分間絶叫)
その瞬間店内に居たお客さんが「爆発」しました、さらに「どっかあああああん!!」
物凄い爆発音が店をゆらせてみんな一斉に床に伏せました、外でテロが起きたと思ったのです
しかしテロではありませんでした、熱いサッカーに火がついたコロンビアの人々が次々に
花火(ほとんど爆弾並ですが)を打ち上げて日本のゴールを祝福したのです
そしてPK最後のキッカー熊谷選手がボールをネットに突き刺すと…
町中至る所から爆弾花火が発射されて物凄い騒ぎになりました
人々は手作りの日の丸を振り回し通りを走り周り大騒ぎ状態です
みんな口々に「こんな魂がぶっ壊れる試合はない!凄い情熱だ!」
と俺に言ってくれました”
“子どものころ、映画を観に行ったものです。
子どもの行く映画ですから、
当然、子どもにもわかるようにつくられているのですが、
上映の途中で疑問がわいてくるんですね。
そこで、連れていってくれたおとなに、
ひそひそ声で訊くわけです。
「この人、いいもん(善玉)?」と。
子どもだったぼくの世界には、
「いいもん(善玉)」と「わるもん(悪玉)」しか、
生きていないんですね。訊かれたおとなのほうは、
”
善良そうな顔で近づいてくる「わるもん」のことだとか、
怖い顔をしているけれど「いいもん」だとかについて、
短いことばで説明するのはむつかしいので、
「だまって観てなさい」と言うわけです。
子どもであるぼくは、怒られてだまるわけですが、
ちょっとしゅんとしちゃったりもしてました。
“川の堤防ぞいで夕方
子供が一人で歩いてて、いきなり立ち止まった
そんでいきなり川の方に向かって
「おかあさーん!」
って叫んだ
なんか一瞬でぎゅうって胸が痛くなって
子供はおかあさぁん、って何度も叫び続けてるし
うわぁやめてこれどうしたらいいの泣いたらいいの
喪女は子供に声かけていいの誰か!とか思ってたら
凄い遠くから「なーにー?」川向こうのマンションのベランダから手を振る女性orz
子「おかあさーん!きょうのばんごはんなにー?」
母「今日はー、カレー!」(聞こえ難い)
子「おれダッシュで帰るからなー!」子供はカレーカレー歌いながら走ってった
”
喪女の後ろの高校生も、「おかんおらん子かと思った」
「嫌がらんかったら肉まんでも買ったろおもてたのに」
「すげー悲しかったのに」「畜生」「おかんおってよかった」
とブツクサ言いながら笑ってた
“私の場合、特異なともだち関係として
5歳か10歳年上の女性とのつきあいがありました。
ところは花のヴェローナにて、ではなく、ヤサグレ者たちがたむろする新宿は歌舞伎町。
20年前はまさにエロから発するエネルギーに満ち溢れた街でした。
当時流行しはじめたお見合いパブでかわいい女の子に引っかけられ、
「お姉さんがいるから」と連れて行かれたのが、歌舞伎町の裏の裏の場末の店。
扉をあけると、上から下まで部屋中真っ赤っかな装飾のうえ、出てきたお姉さんは
女の子とまったく似ても似つかない顔です。席ではへべれけに酔ったおじさんが
新しく封を切ったウイスキーを無理やり飲まされています。
時間が早いからいっぱいだけ飲んでって、とお姉さんに頼まれましたが
多摩育ちの田舎者にも、このやばさが察せられないはずはありません。
青ざめた私に、ささっと寄り添い、「あんたいくらもってるの」と
財布をのぞきこむや、声高に「このこオールで5000円ね!」と助けてくれたのが
くだんの女性です。体格がよく、顔は川谷拓三似。太った川谷さん(仮)です。
しゃくれた顎からはやや息がぬけた女っぷりのよい言葉がでてきます。
その日から、かわいい女の子抜きでも、この危険な店の常連となりました。
いつ行っても、いくら飲んでも5000円です。
川谷さん(仮)が店を異動するたびに、私は新しい店に顔をだしました。
月末には「なんとか来て頂戴」と泣きつかれたこともありましたが、
これも友情の証とばかりに足を運びます。
店を持つのが夢だった彼女は、ついに焼き肉屋を開きました。
しかしやくざものに乗りこまれ、一度だけ私に金を借りに来ましたが、
いつしか消息不明となりました。
地方の役場から職場に電話がかかってきたのは数年後のことです。
彼女は旅館で仲居さんとして働いていたのですが、心臓を病み急死したのです。
残された手帳には、生き別れた娘さんと私の電話番号だけが記されていたそうです。
私は仕事中にもかかわらず、顔を覆って泣きました。
電話口からは「娘さんが引き取りを拒んでいますが、どうされますか?」と
役場のひとの声が聞こえます。私はひと言、声を発することさえできませんでした。
私に何かできたでしょうか。できたはずもありません。
しかし、東京を去った後、一度でも話ができていたら、と思うのです。
せめて愚痴を聞いてあげるのが、ともだちとしての
唯一の役目だったような気がします。”
ともだち何人